高橋富代:「兵学者・吉田松陰」
高橋大輔:「遺され、そして遺す者~高杉晋作に学ぶ~

今月の一節「命と礼、そして言」

子曰はく命を知らざれば以て君子と為るなし、礼を知らざれば以て立つなし、言を知らざれば以て人を知るなし。

人には吉凶禍福等がある。これが命である。命は人が生れた初めに禀(う)けたもので人の力で如何ともすることのできないものである。

人は命を知ってこれを信じこれに安んじれば利害に臨んでも心を動かすことがなくて、君子として愧(は)ずかしくないのである。
もし命を知ってこれを信じこれに安んじなければ、害を見てはこれを避け、利を見てはこれに赴くのである。これは万一の幸いを求め、苟(いやしく)も免れようとする小人である。どうして君子といわれようか。

礼は己の身を取り締まるものである。人は礼を知ってこれを守れば徳性が堅く定まって自ら立つことができる。もし礼を知ってこれを守らなければ耳目も手足も拠るべき標準を失って外物のために揺(うご)かし惑わされる。どうして自ら立つことができよう。

言は人の心の声である。言の得失によって人の心の正邪を知ることができる。もし人の言を聴いてその得失の由(よ)って来る所を知ることができなければ、人の正邪を弁ずることができない。どうして人を知ることができようか。

故に人は天命を知り礼を知り言を知ることが肝要である。この三つを知れば、上(かみ)は天に通じ内(うち)は己を成し外(ほか)は人を尽くして自ら修める要訣が得られるのである。

「兵学者・吉田松陰」

高橋富代

1 はじめに

2 兵学者としての歩み
・英才教育をうけた子供時代
・日本各地を歩いての学び

3 松下村塾で伝えたもの
・兵学と日本史
・飛耳長目 目の前にある問題を知る
・残された者たち 山県有朋

4 今求められること
・日本の誇り
・現状を知る 世界の中の日本
・覚悟 

5 結びに代えて
・本気の心
「学者になってはいかぬ。人は実行が第一である。」
「学んであなたは何をするの?」

田村重信

高杉晋作への手紙

『留魂録』を記す前に、獄中から高杉晋作へ送った手紙


「君は問う、男子の死ぬべきところはどこかと。
僕も昨年の冬投獄されて以来このことを考え続けてきたが、
死についてついに発見した。
死は好むものではなく、また憎むべきものでもない。
世の中には生きながらえながら心の死んでいる者がいるかと思えば、
その身は滅んでも魂の存在する者もいる。
死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、
生きて大業をなしとげる見込みあらば、
いつまでも生きたらよいのである。
つまり私の見るところでは、人間というものは、
生死を度外視して、
要するになすべきをなす心構えこそが大切なのだ。」

「遺され、そして遺す者~高杉晋作に学ぶ~」

高橋大輔

1:これまで日本論語研究会で取り上げてきた人物たち

孔子(1)、聖徳太子(5)、新渡戸稲造(8)、孫子(8)、上杉鷹山(14)、西郷隆盛(19)、二宮尊徳(19)、孟母(22)、大塩平八郎(23)、吉田松陰(28)、渋沢栄一(29)、白洲次郎(44)、福沢諭吉(44)、高橋是清(49)、山岡鐵舟(52)、顔回(55)、勝海舟(70)、尾崎行雄(71)、佐藤一斎(81)、ソクラテス(82)、井上成美(85)、佐藤一斎(95)、吉田松陰(99)

2:高杉晋作の生涯 ~伊藤博文の顕彰碑より

3:三つの「憤」
  その1)松陰の投獄と死
  その2)上海視察
  その3)禁門の変

4:晋作が遺したもの
その1)招魂社
その2)忠と孝の実践
その3)言葉の数々
その4)言葉だけでは、人の心は動かない
その5)「志の揺籃」・・・日本論語研究会の、私なりの解釈

5:言行一致が人を動かす ~「やろうじゃないか」、そして少しだけ「私の憤」の話

<晋作にまつわる言葉の数々>

江戸におる諸友、久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見が違う。
その分かれるところは僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり。
しかし人には、それぞれに長ずるところがある。諸友を不可というでもない。
もっとも功業をなすつもりの人は、天下にいくらでもおるが、
忠義をなすつもりの者は、ただわが同志数人のみにすぎない。
(安政6年(1859)正月11日、吉田松陰からの書簡。松陰は同年11月21日に没)

(いまの志士と称する者たちは)自分の名を他国人に知られたいために、言わぬでもいいことを論じたてて奔走し、虚言を吐き散らせ、勤王の志あるを知られたいため、行かないでもいい公家のところへ陪臣の身分を忘れて罷り出て議論などしておる。じつに憎むべきことだ。
こんなことで風俗が移り変わり、少年白面の書生に至るまで、虚言を吐くことのみを習いおぼえ、実行実心というものが地を払い、目も当てられぬ。
自分もその白面書生の仲間なのかと思えば、愧(は)ずかしい話である――。
(文久2年(1862)秋の記録/葦津珍彦『武士道』より転載)

西へ行く人を慕いて東行く わが心をば 神や知るらむ
(文久3年(1863)、10年の暇乞いの頃)

先生を慕ひてようやく野山獄
(元治元年(1864)、帰京後に投獄された折)

今回の義挙では、士気沮喪(そそう)、総軍狼敗――長州公の威名を傷つけたばかりでなく天下有志者の心を挫折させた。久坂、寺島、入江、来翁も討死。結局残るは尊兄のみ。なにとぞ貴兄持論の割拠を御主張、戦没四君の任を、一身に引き受けるほどの御尽力を伏して望む。
(元治元年(1864)、宇都宮の浪人・大田民吉から宛てられた遺書の抜粋)

「困ったと云う事を云うものではない」
(弟子の田中光顕が語り継ぐ、父小忠太からの教え)

しっかりやってくれろ」
(晋作没(1867)後、雅子夫人が伝える遺言らしきもの)

高杉晋作顕彰碑文

 (原典は漢文/読み下しと解釈は高橋)

高杉晋作顕彰碑

動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。
周囲の者は、ただただ驚き、茫然とするばかりで、敢えて正視する者すらいない。
これこそ我等の東行(とうぎょう)・高杉君に他ならない。

君は諱(いみな)を春風、字(あざな)を暢夫、通称を晋作と言い、後に改名して谷潜蔵と名のった。東行は号(ごう)である。
その系譜は武田小左衛門春時にまで遡る。春時が天文年間に備後国・高杉城の城主だったことから、高杉を姓とし、その子孫は代々、毛利氏に仕えた。

父・小忠太の諱は春樹、そして母は大西氏の二女道(みち)。
天保10年(1839年)8月20日に君は長門国・萩に生を受けた。幼い頃から他人に従おうとはせず、大志を胸に我が道を突き進んだ。
その眼光は強く輝き、そして才識は他の追随を許さなかった。

初めに藩校・明倫館に入門し、19歳の時に吉田松陰に師事した。松陰はその才覚を大いに認め久坂実甫(=後の玄瑞)と並び称した。次いで東遊して昌平坂学問所に入り、また、信濃国の佐久間象山、越前国の横井小楠を訪ね、その学識はますます進んだ。

文久元年(1861年)、藩公は朝廷と幕府の間でしきりに周旋調整を行なった。その頃、君は世子(=君主の世継ぎ)の側近だったが、周旋を「藩に利は無い」とし、そしてなすべきことは他にあると主張した。

文久2年(1862年)、藩公は君を上海に派遣し海外事情を探らせようとした。数か月の滞在を経て帰国したところ、世子は勅命を受けて江戸に発ち、周旋に尽力していた。君はそれに対して異を唱えて回るも、結局は聞き入れられなかった。憂憤のあまり君は世子を諌め、そして藩邸を飛び出した。

やがて勅使の三条中納言と姉小路少将が江戸を訪れ、幕府に攘夷の勅命を伝えた。
幕府の態度は依然優柔不断で、なかなか攘夷を決断することができない。君は同志らと謀って外国人を襲撃し事端を開こうとした。世子は引き止めたが、君たちは遂に御殿山の外国公使館に対し焼き打ちを行った。その後、世子は君を京都に呼び寄せ、君は身分を隠すため剃髪し、その名を東行と号した。


文久3年(1863年)春、天皇のお車が賀茂神社に参詣し、14代将軍徳川家茂は諸候を率いてこれに付き従った。将軍が急に江戸へ戻ろうとした時、君は「将軍がひとたび行動を起こせば、天下の大事が去ることになる」と言い、同志らと鷹司(輔煕・たかつかさ すけひろ)関白に謁見し、将軍を江戸へ帰してはならないと述べた。朝議は君の進言を受け入れたが、それから間もなく君は国へ戻り、隠棲してしまった。同年6月、藩公は勅命に従い、外国船を馬関で攻撃し、その防御の任務を君に託した。

君は武士や民衆から勇敢な者を募り、「奇兵隊」を編成した。
8月に朝廷の方針が急変し、三条中納言らの官職を奪い、藩公父子の入京を禁じた。士民は憤慨し、遊撃軍総督の来島又兵衛は兵を率いて御所に迫ろうとした。君は藩公の命をうけ、来島を諭したが来島は聞き入れない。君はこのことを深く歎き、その日のうちに亡命して京都へ走った。藩はこれを罪として、君を投獄した。

元治元年(1864年)8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四か国が艦隊を連ねて馬関を攻撃した。藩公は、またもや君を呼び寄せ政務に参加させた。我が藩の形勢ははなはだ不利であり。そこで君を講和の使者に立てて停戦条約を結んだ。条約締結には我々(=伊藤含む)も参加した。

これより先、萩の士民は冤罪を京都、すなわち朝廷の膝元で晴らそうとして、ついに禁門の変へと突き進んだ。幕府の長州征伐軍が我が藩の国境まで迫ると、藩士の中には俗論を唱える者たちが次々と台頭し、藩公を萩に擁し政権を掌握して、幕府への恭順を主張するようになった。これにより、正義派の者たちは皆罪人となった。君は憂憤し、国論を回復することを自らに誓い、機を見て逃れ山口へ潜入したが、捕吏(=追手)の追跡が執拗なため、海を渡って筑前に走った。

奇兵の諸隊は折に触れて藩に上申して事を論じたが受け入れられなかった。俗論党はついに、三人の家老と四人の参謀を斬り、幕府に謝罪した。
君は事態が切迫していることを知り、再び長府へ戻り、諸隊を率いて俗論党を討とうとしたが、隊士たちは時期尚早として応じようとしない。君は我々と謀り、わずか二隊の兵を持って挙兵し、馬関伊崎になる幕府の拠点を包囲して姦吏(=幕軍)を追い払った。

その翌日、諸隊は陣を伊佐(=現在の美祢市伊佐町)に進めた。俗論党は驚愕し、獄につながれていた正義派の士7名を処刑した。君は大いに怒り、兵を進め、伊崎(=現在の下関市伊崎町)の会所を襲ってこれを占拠し、俗論派を討つとの檄文を国内に発した。実に慶応元年(1865年)1月2日のことである。
ここにおいて、俗論党は兵を発し諸隊を攻撃した。諸隊は絵堂大田で激戦を展開し勝利した。君は出向いて行って諸隊と合流し、赤村にいる敵を夜襲してこれを破った。転じて山口に入り、兵力を三つに分け、それぞれ萩を目指した。

俗論党に与しない藩士らが藩公に上書し、俗論党を退け事態を収拾するよう願い出た。藩公はこの意見をいれ、諸隊に告げた。諸隊は藩命を聞き入れ、藩論はようやく一つになった。君は幕府軍に備え諸隊を配置した後、私(=伊藤)を伴って欧州に赴き、その形勢を探ろうとしたが、残念ながら果たせなかった。

慶応元年(1865年) 5月、土佐の坂本龍馬が馬関へ来て桂小五郎(=後の木戸孝允)と会見し、薩長連合の必要性を説いた。君は我々とその議に賛成し「幕府の軍勢が大挙して攻めて来ようとしており、我々は軍艦や武器を外国から購入して、これに備えなくてはならない。とは言え、薩摩藩の名を借りなければどうにもならない」と述べた。
私は井上聞多と共に長崎へ赴き、薩摩藩の家老・小松帯刀と話し合い、銃と軍艦を購入した。桂は命を受けて京都に入り、西郷吉之助(=後の隆盛)らと協議して、薩長連合を結んだ。

慶応2年(1866年)の春、君は私と長崎へ赴き、欧州へ旅立とうとした。長崎で船の出航を待っていた頃、幕府の使者・小笠原壱岐守は、期限を切って藩公父子を広島へ召還しようとした。君はこのことを聞いて「戦いの時機が目前に迫っている」ことを悟り、急いで軍艦一隻を購入し長州へ戻った。この時に買った船が丙寅艦(へいいんかん、オテント号)である。

慶応2年(1866年)6月、幕府の軍勢は長州大島郡を襲った。君は丙寅艦に乗り込んだ。そして夜に紛れ、敵の軍艦が並んでいる中に突入し、砲を放って去った。突然の夜襲に敵軍は震え上がった。我が藩の兵はまた海を渡り、陸上の兵を攻撃して遁走させた。
続いて君は軍を豊前に進め、門司大里の地を奪取した。敵兵は小倉城を焼き、退いて香春に入り、ついに降伏した。芸石各州(芸州は現在の広島。石州は石見国、現在の島根)の幕府軍も我が軍に敗れた。四境の外に敵兵の姿はなく幕府の威信は地に落ちた。王政復古の偉業がまさに緒についたのである。

慶応3年(1867年)春、君は病にかかり、4月14日、ついに帰らぬ人となった。享年29歳。藩の誰もが君の死に哀悼の意を表した。君は吉田村の清水山に葬られた。配偶者は井上氏の二女雅子、その間に一男をもうけた、その名を東一という。その祀を承った。

明治24年(1891年)、朝廷は君の功を称え、正四位を贈った。

ああ、君が亡くなった翌年、帝は最高の位に付き、天下は一つにまとまった。
しかし君は、朝廷が盛んになった様をその眼で見ることができず、この素晴らしい御世を知ることもなく世を去った。悲しいかな。
今、ここに某日、君の古い友人らが相計り、君の墓の側に顕彰碑を建て、君の名を不朽のものとすることにした。そして、私に碑文を認めるようにと進めてくれた。これほどの名誉を断わることなどできない。そこで君の業績を記した。その概略はかくの通りである。
明治42年(1909年)9月 正二位大勳位公爵 伊藤博文



※01…天保時代の天皇は第120代・仁孝天皇。続く第121代は孝明天皇で、碑文記載の文久、元治、慶応の帝。明治天皇の父でもある。

※02…安政4年(1857年)、松陰28歳のとき。昌平坂学問所への遊学は翌年の安政5年(1858年)からなので、塾での師事は一年に満たない(一節には僅か8か月)。

※03…時の長州第13代藩主は毛利敬親。その子が第14代藩主、毛利定広(別名・元徳)。

※04…1850年から1864年まで続いた「太平天国の乱」末期。清国政府は内乱を鎮圧するため、イギリスの武力介入を余儀なくされていた。

※05…イギリス公使館の焼き打ちには伊藤も加わったとされるが、碑文では触れていない。

※06…双璧と称された松下村塾の同門・久坂玄瑞や遊撃隊を率いた同志・来島又兵衛が自刃。久坂は享年24歳、来島は享年47歳。

※07…伊藤俊輔率いる「力士隊」と、来島又兵衛から継いだ軍監・高橋熊太郎や石川小五郎(後の子爵/枢密顧問官・河瀬直孝(安四郎))が率いる「遊撃隊」の隊士約80人。
かつて自ら率いた奇兵隊は蹶起に加わらなかった。

※08…同年12月10日、坂本龍馬没。享年31歳。

※09…晋作の没翌年(1868年)が明治元年。

※10…建立の翌月10月26日、ハルビンで安重根の凶弾に倒れる。享年68歳。