徳川斉

「水戸・徳川家のこと」

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徳川慶喜と大政奉還

――さて、その齊昭さんのお子さん、やっと私の曾爺さんのところまで来たんでありますがもうちょっとで終わります。齊昭さんの7番目の男の子というのが徳川慶喜さんであります。松平昭致(あきむね)公と名乗っておりまして、跡取り以外はみんな松平と当時は名乗っております。松平昭致さんになって、一橋家へ養子に出る事になりました。

 で、一橋家から14代将軍が長州征伐にお出になった時に急死をなさったので、さあ、誰もこの幕末の動乱期に、将軍なんてやりたかぁないと言うんで、尾張も、紀州も適当な子がいらっしゃらなかったという事もあって、一橋の当主でありました慶喜さんに白羽の矢が立つわけであります。そこで慶喜さんが15代将軍に立つわけです。その時点で初めて本当は「けいき公」、慶喜公という名前を戴く事になります。この慶喜公のお母さんは有栖川宮から輿入れをした方でございます、齊昭さんの正室です。いま大河ドラマ篤姫の江守徹さんがやっている斉昭公の奥さんですね。この方が有栖川宮から来たお姫様でございます。で、その間に生まれた子ですから、実は将軍として、皇室の血が入った将軍というのは慶喜さんが初めてという事になります。

 ですから、皇室に政権を戻すことについて、ご自分の血の中に皇室が半分は入っているし、母親についてきた宮中の女性たちから皇室の話を聞かされて育ってきたわけですから、そういう意味であまり抵抗がないわけです。で、光圀さんがお始めになった大日本史の事業と共に、家康公なり光圀公なり、歴代の殿さん方の考え方が全て慶喜さんに、藩校弘道館でのスパルタ教育で叩き込まれましたので、先に光圀公が仰った「君主は天子だ」という言葉と自分の血と、それから今の国内情勢、例えば英仏の代理戦争。まさに日本が各藩を割って英仏の代理で戦争を始めたら今の日本はどうなってたかという所に来るわけでございますね。もしや、英国領とフランス領に割れたかも知れません。そうなった時には神様仏様でなくアーメンだったかも知れませんですね。

 そんな事もあって慶応2年、1866年の12月に将軍に任命され、翌年、慶応3年の10月には大政奉還が行なわれます。たった10ヶ月の間で、260年に渡る江戸時代に幕を引いて、新しい時代の幕を開けたということでございます。この辺りは今やっております、先ほども申し上げました大河ドラマ、天璋院のところをご覧頂くとよく出て来るのかなと。
慶喜さんはずうっと将軍時代を大阪・京都で過ごしましたので、江戸城には居ないんですね。ですから天璋院さんが江戸城で一人、頑張っておられた。この天璋院さんがドラマ化された理由というのが、島津から来たお姫様でありながら、私は徳川の人間だから島津家からの施しは受けないと言って頑張られた。これが美談となって残っている訳でございまして、それで大河ドラマ化されたということでございます。

 後日、孫達が本人に聞いた話として私どもも伯父から聞かされましたけれども、「何で大政奉還したのか?」と孫どもに慶喜公が聞かれたらしいんです。そうしまたら暫し黙考して、「あの時はああするしか無かったんだ。誰がやったってああなったんだ。」と孫達に仰ったんだそうです。10人位の孫がそれを聞いておりますので、聞き間違いは無いのだろうと思います。一見、偉そうにも聞こえますし、もう世の中の情勢を見たらそうするしかないと。そうしないとその、日本という国体を維持できない、と言うような事を感じ取っておられたのかも知れません。

 今となっては御本人に直接聞くわけにも参りませんので分かりませんけれども、私どもとしては、とにかく世界に冠たる無血の大革命を成し遂げられたのは、うちのご先祖だと。これが身内の贔屓目でございますけれども、それだけを頼りに今ここで講演しているようなものでして、そんな思いでおります。――



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「水戸・徳川家のこと」(PDF:65KB)


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